第3回目の文献ゼミでは、前半はモチベーションについて、後半は社会構成主義の観点から社会的に構築されたカテゴリーについて議論をしました。
モチベーションに関する議論では、モチベーションに関する心理学的知見について議論をしてきたのだけれど、そもそもモチベーションを「もの」として対象化することで何が見えて、何が見えなくなっているのかについて議論しました。
モヒベーションがある、ない、高い、低い、など、まるで「もの」のように扱う。「もの」のように捉えるということは、それはコントロールができるということになる。コントロールができるという発想があるから「モチベーションを上げるための方法」「モチベーションが低いときはどうしたらいいのか」という問いが生まれる。
しかし、モチベーションは人によって与えられたり、あげたりできるものなのか?という問いを持った。自分達の経験を事例としながら分析してみても、モチベーションが下がったり上がったりするのは、環境要因と密接に関わっている。つまり、モチベーションは社会的に構築されるものとして捉えられる。そう考えると、環境をどうデザインするかという発想になってくる。
「自分のモチベーションの低さを環境のせいにするな」と中学(高校)の時に言われたことがある、という話も興味深かかった。モチベーションが環境と密接に関連してるなら、やる気がないのは環境のせいだ、という考えになる。しかしそうじゃない。その意図は「誰かが作った環境に対して、モチベーションが湧かないと文句や言い訳をするのではなく、その環境を自分でつくれ」ではないかと。自分がやる気がないなと思ったら、どうやってそれを発生できるのか自分で環境をデザインできるようになる、それがとても大切なことだね、という気づきもありました。
アジェンダ2では、社会構成主義の2章を読みました。テーマは社会的に構築したカテゴリーとその再構築についてです。私たちの日常はさまざまなカテゴリーで溢れています。カテゴリーは私たちのコミュニケーションを円滑する上で必要不可欠なものですが、一方で、そのカテゴリーによって見落とされるものがたくさんあります。
たとえば、不登校というカテゴリーは、医者、保護者、学校などにとって、その対応において便利なカテゴリーであるけれど、当事者が置き去りにされる可能性もあります。不登校というカテゴリーに入れられることで、不登校となる多様で複雑な状況や要因について見えなくなってしまうという問題が指摘されました。一方で、カテゴリーがあることで、自己理解や他者理解が進むという話もありました。自分はなぜみんなができることができないのか?と悩んでいる人は、自分がADHDやASDの特性があることがわかることで「だからそうなのか」と受け入れ、必要な支援をしてもらえるようになる、ということもありました。カテゴリーがあることで、支援を得やすい、わかってもらえる、という利点がある一方、カテゴリーによって生じる差別、偏見、不理解などの問題もあるということを中心に議論しました。
社会で「こうすべき」「あるべき」をつくることば、ラベル、言説に対してどう向き合っていくのか、関わっていくのかを考えるよてもよい会話となりました。