5日 地雷博物館訪問

10年前に地雷撤去に参加させてくれたアキーラ。当時、寺のモンクと共に村の地雷撤去をしていた。アキーラの考え方、動き方をみてとても共感した。当時、地雷撤去にブルドーザーみたいなのを歩かせて、爆発させて処理することができたが、森や林の中に埋められた地雷は手作業でないと撤去できなかった。これらの村の周りの森の中にある地雷は、村の人たちが自分の家族を外部の敵から守るために埋めたものだ。そのため、彼らはある程度どこに埋めたのかを覚えている。しかし、雨が降ったりして、それが流され、場所がずれてしまうことがある。埋めた人がなくなり、どこに埋めたか正確にわからないことがある。そこで、人々の記憶を辿りながら地雷を探しすのである。ひとつひとつ。

地雷撤去には特別な機械はつかわなかった。クワだけである。地雷はスイッチをおすと爆発するので、斜めから地雷を掘り起こせば爆発しない。特別な機械ではなく、村の人たちが日用品としてもっているものをつかって、地雷撤去していた。

今では、地雷撤去の経験のない人たちがやるのではなく、ライセンスのある人だけが地雷撤去をする法律ができた。2007年だったか(正確には覚えていない)が最近のことだ。米国をはじめとする海外からの援助をうけ、彼らが中心に地雷撤去をしている。そして、地雷をの被害にあった子供たちを集めて学校をはじめた。

地雷博物館に併設されている学校を訪れた。普段、外国人は訪問することができない。かなりクローズにしている。ANAという女性が学校や台所を紹介してくれた。「この子たちは、ゲームで遊ぶことはできません。アメリカ人の子どもはみんなゲーム機をもっていたんだけどね。」「バナナやマンゴーなどは森からとれるのでいつもたべますが、ここでは、りんごやパパイヤ、ドラゴンフルーツというものは1ヶ月に2回くらいしか食べることができません。」という。この言葉を聞いた時、彼女は、米国の価値でこの子たちの生活をみているな、とおもった。子どもの遊び部屋をみせてもらったときも、ぬいぐるみや遊び道具がおいてあったが、「30人の子どもたちには不十分です」という。あるだけいいじゃないか、とおもった。彼女はどんなリッチな環境をめざしているんだろうか。

ANAの話を聞きながら、アキーラがめざしたものはこれだったのかな、ととても疑問におもった。一緒に過ごした時間は彼女に比べてとても少ない。でも、アキーラは誰もを歓迎していた。たまたまそこにいたバックパッカーの私に「地雷撤去にいくんだけど、一緒ににどう?」といった。地雷撤去から帰ってきたら、ごはん食べていく?ハンモックで昼寝していけば?と気軽に声をかけてくれた。この学校は、組織的で、許可なしに人が立ち入ることができない。あの頃、アキーラが世話していた子どもたちは、人になれ、一緒に遊び、みんな迎え入れていた。

アキーラの気持ちはわからないけれど、もし葛藤があるなら、、と考えはじめた。海外からの支援をうけるということは、政治的なことがどうしても入ってしまう。ドナーの意見が色濃くでてしまう。「私たちのやりたいようにできるならお金を出すわよ」、そういって多くのローカルNGOが自分たちのやりかたや目的を変えざる終えなくなっている。沖縄の問題について講演してくれた松島先生もいっていた。「沖縄はいつも選択肢のない取引を強いられる。政府の意図を受け入れるなら、経済的支援をするが、そうでなければ支援はできない」。多くの場合、純粋にローカルの人たちがやりたいことに対して助成されるわけではない。お金を出すから、、と取引がある。それは交渉といえないことがある。もらう側には交渉の余地がないこともあるからだ。

そんなことを考えると、やはり既存の「支援」について考えさせられる。ローカルの人たちによる、ローカルのための支援って何か、ということについて引き続きしっかり考えていかなければならない。

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